葉山でR-BALLETを主宰し、地域に根ざしたバレエ教育を続ける大澤涼子先生。 幼少期に橘バレヱ学校でバレエと出会い、牧阿佐美先生のもとで研鑽を積み、ホテル業界での社会経験を経て、自らのスタジオを立ち上げました。今回は、その半生と、子どもたちと向き合う現在の想いをうかがいました。
橘バレヱ学校で始めたバレエ
大澤先生は、お母さまに連れられていった橘バレヱ学校で4歳からバレエを始められたと伺いました。
大澤先生: そうなんです。私の叔母がバレエを大好きな人で、母に「東京でどこがいいか?」と聞いたときに「橘バレヱ学校が絶対いい」と勧めたんです。それで、母に連れられて4歳のときに橘バレヱ学校に行ったんですね。当時から今も変わらず、渋谷区富ヶ谷に稽古場がありました。私は目黒のほうに住んでいたので、通える範囲でした。最初は母の車で送迎してもらっていましたが、小学校に上がる頃には自分で通っていました。
小学生からご自分で通われていたんですか?
大澤先生: はい。目黒駅があって、そこから渋谷まで2駅。渋谷駅からバスで通っていました。当時は今のように親の送り迎えが主流ではなく、みんな電車とバスを使って自分で通っていたんです。
橘バレヱ学校は、1クラス何人ぐらいでしたか?
大澤先生: 幼稚園のクラスは10人ぐらい。全体では100人以上、200人近くいたと思います。小学生になると低学年・中学年・高学年と分かれて、高校生以上はプロを目指す子ばかりでした。
ダンサーの先生に憧れて
幼稚園の頃はどんな環境でバレエを習っていたのか、印象的なことを教えてください。
大澤先生:
幼稚園の時の先生が現役のバレエ団のダンサーで、とても厳しいけれど優しい方でした。
怒られた記憶はなく、空気感で生徒を引き締めるような先生でした。その先生に憧れて、「先生のようになりたい」と思いました。
当時は「バレエが好き」というよりも「先生が素敵だった」という印象の方が強かったですね。
新たな挑戦
なるほど。中学生になってからは、橘の日本ジュニアバレヱに所属されています。
大澤先生:
最初は「先生のようになりたい」という単純な憧れから始めたバレエですが、小学校に入ってもずっと続けていて、中学生のときはバレエが生活の中心になっていましたね。
ただ、私はどちらかというと引っ込み思案で目立ちたいタイプではなかったんです。日曜日のクラスには、オーディションを受けて全国から集まって来た熱心な生徒も多くいて、私はというと、そうした世界を少し遠くから見ている側でした。
でも小学6年生になって、「挑戦してみようかな」と思い立ち日本ジュニアバレヱのオーディションを受けたのが転機でした。でも、どうしても受かりたいというわけではなく、「習っていたピアノの先生が怖かったから、バレエのほうがまだいいかな」くらいの気持ちで(笑)。 その後、小学6年生から中学1年生頃に、牧阿佐美先生が主宰する日本ジュニアバレヱと、牧阿佐美先生が直接指導してくださるA.M.ステューデンツに合格しました。 当時、橘バレヱ学校からも数人が受けており、私がオーディションを受けたのは「くるみ割り人形」のクララ役に抜擢されたのがきっかけでした。当時の担任の先生から直接お電話をいただき、「やってみませんか?」と言われた瞬間の嬉しさは今も覚えています。あの経験が、「自分ももっと上を目指してみよう」と思うきっかけになりました。
牧阿佐美先生という存在
牧阿佐美先生はどんな方でしたか?
大澤先生:
私の生きてきた中で「師匠」と呼べる方は牧阿佐美先生だけです。阿佐美先生はまさにカリスマ性のある“バレエの神様”のような存在でした。私たちや上の世代にとっても、今の若い世代にとっても、特別な方だと思います。
阿佐美先生は橘バレヱ学校の校長先生でもあり、毎年の学校公演や発表会では常にトップとして全体を率いておられました。私が幼稚園から小学校低学年の頃には、先生がソロの作品を直々に振り付けしてくださっていたこともあります。当時は武者小路実篤さんのお孫さんなど、著名なご家庭のお子さんたちも多く通っていて、学校全体に品格や華やかさがありました。また、少し個人的な話になりますが、私の祖父は社民党で議員をしていた人(※編注:田英夫氏。当時、村山富市氏や土井たか子氏とともに活躍)で、バレエのことは全く知らなかったのですが、「初孫が頑張っているから」と、毎回必ず発表会を見に来てくれて、先生ともよく話をしていました。それが当時は少し恥ずかしかったですね。
また、阿佐美先生が先輩の生徒のために振り付けた作品は、翌年に後輩が踊らせていただいていました。
阿佐美先生は、長く橘バレヱ学校の校長としていらっしゃったので、私たちにとっては先生の中で一番上にいる先生という印象でした。
お話もとても面白く上手な方でしたが、バレエに対してはすごく厳しい方で、生徒一人ひとりの性格を見抜いて、その個性に合わせて育ててくださる先生でした。競争心を持たせたり、ライバル関係を上手に作ったりして、生徒を成長させる力がありましたね。今思えば、先生は私の性格もすべて見抜いておられたと思います。大人になってから、そのことのすごさを実感しました。
プロを目指す仲間たちの中で
その後もずっとバレエを続けられて?
大澤先生:
高校3年生までは、一生懸命バレエを続けていました。
私は学習院に初等科から入っていたので、いわゆる受験勉強というものはなく、バレエを辞めるという選択肢もありませんでした。
中学生になると、千葉や埼玉、神奈川など地方から個人教室で上手な子たちが橘バレヱ学校に平日のお稽古も通ってきているようになって、どんどんレベルが上がっていったんです。高校生になる頃にはみんな、学業よりもバレエを優先し、将来は牧阿佐美バレヱ団に入りプロになることを目指し頑張っているという環境でした。
そして、橘バレヱ学校の下のクラスから上がってきた生徒は、回りを見渡したら中学生の頃には、ほぼいなくなっていましたね。
地方からの生徒さんの意識はどのような感じでした?
大澤先生:
ガッツがすごかったです。相当に。
私自身は、そこまでの覚悟や明確な目標はなくて、同じ舞台で踊っていても、どうしてもプロになりたいという強い気持ちはあまりなかったですね。
父から届いた一通の手紙
ご両親はそのような環境でバレエを続けていることを、どのように考えていらっしゃったのですか?
大澤先生:
母は「あなたは性格的にこの世界には向いていない」とずっと言っていました。学習院の友人たちとは180度違う世界に見えたようです。
一方で父は経営者で、通訳として海外のスキーアスリートをオリンピックでサポートするといったスキー関係の仕事をしていたこともあって、スポーツの感覚でバレエを見ていたんだと思います。父にとっては「結果を出してこそ価値がある」という世界に映っていたようですね。
そして、高校を卒業する頃、出張中の父から手紙をもらいました。
「これまでバレエにこれだけ費用がかかっています。続けたいのならこれからは自分で出しなさい」と書かれていて、「それくらいプロになりたいという気持ちがないんだったら、違うんじゃないか」という意味でした。
その手紙を読まれて、どんなお気持ちになりましたか?
大澤先生:
私は踊ること自体は好きでしたが、「絶対にプロになりたい」というほどではなかったんですね。周りの子たちは舞台に立つことに情熱を燃やしていましたが、私はむしろリハーサルや、みんなで一つの作品を作り上げていく過程、そして舞台が終わった後の達成感が好きでした。だから、父にそう言われた時に「それでも私はやりたいんです」という気持ちにはならず、大学進学を選びました。
その時には、阿佐美先生のところへきちんと「バレエを辞めます」とご挨拶にも伺いました。
バレエを離れて感じた空白
バレエから離れた、大学での生活はいかがでしたか?
大澤先生:
それまで休まず続けてきたバレエをいったん止めたことで、すごくストレスを感じました。
幼い頃から日常の一部だったので。だから、バレエを完全にゼロにはできませんでした。大学ではやりたいことはあっても、どこか夢中になりきれず、ストレスもあって。オープンクラスで単発のレッスンを受けたり、体を動かしたりする程度にはバレエを続けていました。阿佐美先生のクラスにオープンクラスがなかったので、バイトもいろいろやりながら、いろいろな先生のレッスンに行ったりしていました。ただ、当時は「バレエ中心の生活」からは離れましたね。
「心に残る場をつくる」という仕事
大学を卒業されてからは?
大澤先生:
就職活動の時、何がやりたいかを改めて考えました。エントリーシートで19年分を振り返ると、15年以上をバレエに費やしてきたわけで、やはり「本番に向けて準備していく過程」「形には残らないけれど心に残る場づくり」に惹かれていたんだと気づいたんです。
そこで、当時注目されていたウェディングプランナーの仕事に興味を持ちました。新郎新婦のために、1回限りの本番に向けてコーディネートしていく、バレエとどこか繋がったんです。
ホテル業界も受けつつ、私は最初から「ウェディングをやりたい」と明確に伝えていました。ベンチャーのハウスウェディング会社、青山の式場、アオキ系のブライダル部門なども調べて説明会に行きました。やると決めたら人に話を聞きに行くタイプなので、いとこが結婚式をホテルオークラで挙げたとき、ブライダル担当の方にお話を伺いに行き、学生のうちに取ると良い資格を聞いたりしました。
信頼関係が生む安心感
大澤先生:
その当時は就職氷河期で、大卒採用は本当に少なかったのですが、最終的にホテルオークラに営業部のブライダル担当として入社させていただきました。同期も少数精鋭で、ウェディングを志望していた女性は私を含め2人。他はフロント志望や、航空会社からの転身組など。専門学校出身の現場スタッフの人数のほうが多いくらいでした。
会社の教育は素晴らしく、研修で徹底して学びました。いわゆる帝国・ニューオータニ・オークラといった旧御三家と、ウェスティンなどの新しい外資が出てきた時代でした。オークラでは、ブランドとして何を売りにし、どう残っていくかということをスポンジのように吸収しました。そのことは今の仕事にも生きていますね。
オークラはマニュアル通りだけではなく、臨機応変することを大切にしていました。ブライダルに配属してすぐ、新郎新婦対応や、両家それぞれの事情に寄り添うコミュニケーションを学び、時には上司と組んで大きな宴席も担当しました。結局そこで、クレーム対応も含めて「打ち合わせ期間の信頼関係をきちんと築けば、万一の時にも乗り越えられる」ということを体で覚えました。若いうちに経験できて本当によかったと思っています。
結婚、そして新しい生活へ
オークラには、どれくらいおられたのですか?
大澤先生: 3年間勤めました。勤めているときに、オークラの面接で一緒だった同期の男子のつながりで今の主人と出会い結婚しました。それで、妊娠・出産を機に、仕事の継続を考えました。ブライダルの仕事は土日勤務と夜も遅くなることが多く、また保育園事情も今ほど整っていなかったんです。会社は理解を示してくれて、人事や平日勤務の部署という道もありましたが、私は職種で選んで入社していたので、事務系に自分が向いていないと感じて退職を決めました。
葉山での暮らし
退職されたあとは?
大澤先生: 当時から、夫が葉山でヨット関係の仕事をしていまして。目黒から通っていたんですが、急な呼び出しにも対応できるように葉山に住むことになりました。実家は双方とも東京で、葉山は全く初めての土地でした。子どもが2歳になる前に引っ越してきたんです。
引っ越して来て、すぐにスタジオを?
大澤先生: いえ、全然。東京にいた頃は、オークラで働きながら、休みの日に実家近くの個人の教室でバレエレッスンを受けたり、お手伝いしたりしていたのもあって、葉山でも体を動かすために大人クラスを探しました。
そして、そこの主宰の先生に「あなた、教えない?今までどうしていたの?」と経歴を聞かれて、「じゃあ、午前中の大人クラスだけでも手伝って」と声をかけられました。 当時、葉山の保育園もフルタイムでなくても少し預けられる制度に変わり始めた頃で、夫とも相談して、しばらく大人クラスの指導を手伝うことになりました。
自分の教室を始める決意
大人クラスの指導をしてみていかがでしたか?
大澤先生:
自分の核である阿佐美先生のバレエと、その教室のスタイルが明らかに違うと感じました。バレエは流派や先生によってカラーが違います。コンクール重視の教室、作品の選択、集まる生徒の傾向などもそれぞれ違うんですね。トップのバレエ団のカラーも違いますし。やはり私は、阿佐美先生の作品世界が好きでした。
それで、自分の教室を開いて、どうしても阿佐美先生のバレエを教えたいと思うようになり、自分で開くことを決めました。オープンする前には、まず、阿佐美先生のもとへ「葉山でお教室を開かせていただきたい」とご挨拶に伺いました。
先生はとても寛大な方で、「厳しい世界だからこそ、女性が手に職を持つことが大切なのよ」とお話しくださいました。
それはスタジオを開くどのくらい前ですか?
大澤先生:
スタジオを開く前、私は子どもを預けながら、志賀三佐枝先生のレッスンにも通いました。
三佐枝先生は阿佐美先生の娘のような存在で、ずっとお側で仕事をされてきた方です。8歳くらい上の方ですが、私にとっても子どもの頃からの先生で、レッスンを受けるのが大好きでした。いろいろ相談もしていました。
そんな中で、私が29歳の時に父が突然、海外出張中に空港で脳出血で亡くなったんです。これが私の背中を強く押しました。お手伝いではなく自分で教室をやると。
R-BALLET誕生
いよいよスタジオを開かれたんですね。
大澤先生:
はい。2013年4月にオープンしました。 まずは、時間決めで借りられるレンタルスタジオを借りて始めました。鏡はあり、床は普通のフローリング。広さは今より少し縦長で狭め。天井も一般的な高さのスタジオでした。
レンタルなので他のチア団体も使っていたので、スニーカーで床が滑るようになってしまうこともありました。そこはお互い様なので、うちの生徒には松ヤニを使ってもらうことにしました。また、バーはなく、自前でバーを購入しました。最初は1本だけでしたが、最終的に3本揃えて、今も10年以上使っています。毎回出し入れしてレッスンしていました。
チラシ1枚からのスタート
最初は、生徒さんをどうやって集められたのですか?
大澤先生:
オープン時だけ自作チラシを少し作って、自分で歩き回りポスティングしました。チラシを見て来てくれたのは、一人だけでしたが、その子は今でもいる第一期生になりました。「出会ってくれた」という感じです。
ほかに、当時スーパーにあった掲示板や湘南ビーチFMの冊子に有料広告を数回出しましたね。1回5万円位でした。来てくれた人に「何でここを知りましたか?」と全部聞いていたのですが、当時は冊子を見てきた人が一番多かったかな。それと、役所の葉山広報にも何度か出しました。
いろいろやられていたんですね。
大澤先生: はい。でも本当に小さく小さくしていました。ただ私の勘ではずっと宣伝を出し続けているお店は伸びていないです。本当に回っている所は、ある時から広告を止めています。飲食でも病院でも、そう見えたんですね。だから、最初の立ち上げに少しお金を使い、あとは口コミに任せる方針にしました。葉山町の人口は3万2千人、逗子市の人口は5万5千人なので人が人を呼ぶという感覚は、やっぱり良いなと思っています。
理想の場所を探して
レンタルから、今のスタジオに移られたのはいつですか?
大澤先生:
第1回発表会の後ですね。床と天井高がどうしても課題でしたので。
子どもが大きくなってトウシューズになれば、滑る床では無理です。ジャンプやリフト、パ・ド・ドゥを視野に入れれば天井高も必要です。第1回発表会では私自身も踊ったので、私は東京のスタジオを別途レンタルしてリハーサルをしていました。そのような感じだったので、「この形では続けられないな」と思いました。その時はマンション暮らしでしたが、夫がとても理解のある人で、大澤家としても支えてくれましたので、自分のスタジオを持つことを決めました。そして、スタジオと住居を別にするか、同じ場所にするかをいろんな角度で検討しました。
それで、同じ場所にすると決められたのですね。
大澤先生:
そうです。同じ場所にして建てることに決めました。
そして、まずは土地探しから始まりました。不動産屋さんを回っても山側など通いにくい場所などしかなく、最初は全然見つかりませんでした。今の場所は関東学院大学のセミナーハウスがもともと建っていた場所なんですが、散歩中に24区画の分譲になることの工事が始まっているのを見つけ、取り崩しの頃から不動産さんに連絡をしました。そこから一気に進みましたね。区画選びは抽選で、最終的に今の坂を上がった先のこの一番良い場所に決まりました。
柱のないスタジオ
設計はどうされたのですか?
大澤先生: 横浜の会社と葉山の会社を比較し、打ち合わせのしやすさから地元葉山のスターホームさんに決めました。バレエスタジオの設計は初めてとのことで、柱のない大空間にするために教会の構造を参考に、周囲の梁を太くし、1階と2階の間に空間を作って支える方式にしました。とにかく中央に柱は立てないことを最優先にして、決断はテンポよく進めました。
踊るスペースはどのくらいですか?
大澤先生: 最大で約8m×12mです。
スタジオ部分では何に一番お金がかかりました?
大澤先生:
床ですね。床は広小路さんに頼みました。スターホームさんは住宅部分、スタジオ内部の床やミラーは広小路さんです。一番お金がかかったのは床です。360万円くらいかかりました。下地がしっかりして弾みがよく、トウシューズやジャンプに最適です。張り替えは「10年に一度」と言われましたが、他の先生方はほとんど張り替えないとも聞き、様子を見ています。鏡の配置やバーの取り付け位置は細かく私が指定しました。また、空調・換気扇もその時に新調しています。BOSEのスピーカーは夫が天井の四隅に設置してくれました。音の環境はすごく良いです。そして、分厚い防音壁と二重サッシにしているので外への音漏れも最小限です。
照明はLEDの3段階切り替え。昼間は自然光も入り、夜は十分明るいです。
スタジオのメンテナンスはいかがですか?
大澤先生: バーを生徒が移動させるときに壁に当たってへこみができたり、穴が開いたり、細かな修繕は発生します。しょうがないですけどね。
お月謝とスタジオ名の決め方
スタジオを始められる時に、お月謝はどのように決めました?
大澤先生: 最初に逗子・葉山周辺の相場を調べました。そしてレンタルスタジオで始めた当初は抑え目にしていました。なぜかというと、最初は幼稚園〜低学年が多いので、はじめのハードルを低くしたかったんです。学年が上がるほど段階的に設定しました。
スタジオ名の決め方は?
大澤先生: 涼子の「R」ではあるんですけど、そこはあえて言わないようにして、「Reverence」「Rose」「Ribbon」の3つ「R」に想いを込めた名前にしました。例えば「大澤涼子バレエスタジオ」とすると自分を過度に前面に出す感じがして、私の性に合わないんです。
一人ひとりに寄り添うレッスン
教室をスタートして、初めてわかったことはありますか?
大澤先生: バレエの指導は、だいたい「この年齢の子にはこういうことを教える」という目安があります。クラスごとに決まってはいるんですけど、結局、個人で教室をやっていると、それだけでは済まない部分が多いんです。
バレエ学校のような組織なら、先生と生徒の間に事務局があって、先生はレッスンの時間だけ来て教える。それで完結しますよね。でも、個人教室だとそうはいかなくて。レッスン以外の時間にも、家庭の事情や親子の関係など、いろんなことに対応しなければいけない。親御さんから相談を受けることもあれば、子ども自身が悩みを話してくれることもあります。「どうしたらいいだろう」「どうやったらうまくいくんだろう」と、常に考えながら関わっています。だから、バレエのレッスン自体よりも、そういう部分の方がずっと大変かもしれません。もちろん好きでやっているんですけど、「こんなにいろんなことがあるんだな」と実感しています。やってみて初めてわかったことですね。
日々の教室運営で気を遣うことが多いですか?
大澤先生: そうですね。たとえば「こういう規則にします」とか、「こういうやり方にします」と決めても、それを文章で伝えただけではうまく伝わらないことも多いです。同じ年代の子どもたちでも、理解の仕方はそれぞれ違いますし、感じ方も人それぞれ。だから「この子にはどう伝えたらわかってもらえるかな」「この保護者の方にはどんな言葉が伝わりやすいかな」と考えながら接しています。人それぞれ事情や気持ちが違うから、そこを汲み取ってあげることが大切だなと思います。個人でやっているからこそ、そういう部分は特に大事にしています。
「第二のお母さん」として
生徒さん一人ひとりに対応しているんですね。
大澤先生:
はい。やっぱり子どもたち一人ひとりに、それぞれの家庭の事情や背景があります。学校や家庭以外のプラスアルファの場所として、この教室を信頼して通ってきてくれているので、私自身、ある意味では「第二のお母さん」みたいな存在なのかもしれません。今はお母さんたちも仕事で忙しい方が多くて、教室に顔を出すことはあまりないんです。だからこそ、子どもと接する時間がとても大事。幼稚園の子でも、その日の気分や表情が全然違うんですよね。
バレエっておしゃべりよりも体で表現するものだから、言葉にしなくても、気持ちは全部動きに出ます。だから、子どもの様子をよく見て、感じ取ってあげることを大切にしています。
そうした思いは、ご自身の経験から生まれたものなんですか?
大澤先生:
私はバレエ学校で育ちました。地方から個人の教室の先生に連れられて来ている生徒たちを見て、やっぱり羨ましく感じることがあったんです。小さい頃からずっとその先生についていて、その先生がまるでお母さんのように本部の阿佐美先生のところへ生徒を連れてきて、いろんなお願いをしたり、ご挨拶をしたりしている。そういう姿を間近で見て、「ああ、いいな」と思っていました。
私はずっとバレエ学校の生徒だったので、クラスごとに担当の先生が変わるし、ある意味で線が引かれていて距離があるんです。組織の中だから、プライベートなこととか学校のことなんかも、そう簡単に話せない。その日の気持ちとか、ちょっとした変化を汲み取ってもらえるような場面もなくて、とにかく稽古をして、ただ見られているだけでした。
だからこそ、今こうして個人で教えるようになって、「ああ、私はあのとき、こういう関わり方をしてもらいたかったんだな」と思うんです。子どもたちにも、そういう関わり方をしてあげたい。ちょっとした声かけで野心が芽生えるような、前に進みたいと思えるような、そういう関係を築けたらいいなって。
発表会や日本ジュニアバレヱのオーディションに挑戦するときのフォローは、本当に気を遣います。
「自分がこうしてもらえたらよかったな」と思うことを、今は自分がしてあげたい。そして、本人がどう感じているか、どう思っているかというのは、やっぱりすごく見ています。そこを見逃さないようにすることが、いちばん大事だと思っています。
子どもたちの笑顔が教えてくれること
生徒さんから学ぶこともありますか?
大澤先生: そちらの方が多いくらいです。人前が好きな子、いつも話しかけてくる子、こちらから声をかけると伸びる子など、みんな違います。育ちも背景も違うからこそ、人を観る目が磨かれます。人が好きでないと続かない仕事ですね。
厳しさを学ばせたいという想い
大澤先生の息子さん(雄帆さん)もバレエをされています。
大澤先生:
気の毒なことに、息子はそういう人になっちゃったんですけどね。(笑)
もともと、息子には生まれたときからバレエをやらせる気なんてまったくなかったんです。男の子だし、バレエなんて考えもしませんでした。大澤家も私の実家も、みんなそう思っていました。
むしろ葉山に来てからは、運動神経がとても良かったので、ヨットをやらせたんです。主人がヨット関係の仕事をしていたこともあって、葉山のヨットクラブに入り、小学生の頃はずっとヨットを続けていました。レースでも結構いい成績を取って、ヨット界の人たちからも「この子は将来有望だ」と言われていたんですよ。オリンピックを目指すような話も出ていました。
でも、小学校の高学年になる頃のことです。私は、自分が子どもの頃に厳しい先生のもとで、時には苦痛を感じながらもバレエを習っていた経験がありました。だからこそ、息子がヨットで成績を出しても、それが日常的に厳しい練習の積み重ねによるものではないように感じ、「このままではダメだな」と思ったんです。どこかで、人生の早い段階で厳しさを知ることが大事だと感じていました。
それで、どうされたのですか?
大澤先生:
ちょうどその頃、私の恩師である三佐枝先生が、牧阿佐美バレヱ塾の小学生クラスを新たに始められる時期でした。私自身もR-BALLETを立ち上げようとしていた時期で、息子をそのクラスに通わせることにしたのです。
阿佐美先生にご相談したら、「自分が教室をやるなら、息子は早いうちに出しなさい」と言ってくださって。息子は土曜日だけ、富ヶ谷の橘で行われていたバレヱ塾のレッスンに通うことになりました。
バレエとヨット、学業を三立する日々
雄帆さんご本人はいかがでしたか?
大澤先生:
本人は、私のバレエを見たりしていて、嫌ではなかったみたいです。
嫌がることもなく、自然に行きました。ヨットとバレエを両方やっていて、真っ黒に日焼けした顔でレッスンを受けに行ってたんです。男の子はクラスで一人だけでしたが、嫌がらずに東京まで通っていました。
私は、仕事と子育てを両立させながらも、息子が帰ってくる時間を把握できるように、自宅兼スタジオにしたんです。中学・高校の頃は特に目を離しちゃいけない時期だと思っていました。
中学に入ると、学校の先生から「バレエもヨットも学業も、全部は大変じゃないですか」と言われました。でも、三佐枝先生に「辞めます」なんてとても言える雰囲気ではなく、そのままバレエを続けました。
三佐枝先生は本当に厳しかったですが、息子はサボることもなく、休まず通い続けたんです。私なら「もう嫌だ」と思うほど厳しかったのに。負けず嫌いで、厳しさを受け止めてついていくタイプなんでしょうね。
そして、試験前に休む子が多い中でも、息子は一切休まずに通っていました。私はそれを「良いこと」だと思っていたので、安心して任せていました。ヨットは中学2年くらいで辞めました。
プロを目指して
そして今は、他の教室のゲストに出られたりしていますね。
大澤先生:
そうですね。富山の先生とコンクールの時にご縁があり、その先生にも見ていただくようになりました。
最終的には、三佐枝先生をはじめ、いろんな先生方に指導していただきながら、10代後半の頃には、もう自分の人生をバレエにかけようと決意していました。
踊ることが本当に好きなんです。私もある時から、「この人は私を超えたいと思っているな」と感じました。
バレエは若いうちしかできないことだから、「40歳になってから本格的にやろう」なんて思っても遅いですから。だから、「やれるところまでやってみたら」と背中を押しました。それが高校3年、大学に入る頃でしたね。
今はプロを目指されているんですか?
大澤先生:
はい。ユースの大会に「20歳で最初で最後」と出場しました。結果、アムステルダムのヨーロピアンスクール・オブ・バレエ(European School of Ballet)から声をかけていただき、留学が決まりました。今は小学生のうちから海外を目指す子も多いですが、息子は自分のペースでやってきたんです。
留学最初の3か月はお試し期間として4月から参加し、夏休みに一度帰国して、9月からまた始まっています。
また、今の海外のバレエ事情は昔とはまったく違い、息子を通して私もたくさん学びました。プロを目指すような子は、日本では学校の後に夜遅くまで練習するのが当たり前ですが、海外のバレエ学校では日中から稽古が組み込まれた生活です。そして、日本の学業は通信で済ませる子も多いです。みんな若いうちに海外に行ってしまう理由がよくわかります。
海外のバレエ学校は、バレエに集中できる環境なんですね。
大澤先生: そうですね。
初めての発表会― 2015年、逗子文化プラザホールにて
ところで、教室をされていて失敗談などありますか?
大澤先生: いろいろあったとは思いますが、次々と課題が来るので、乗り越えるうちに細かいことは忘れてしまうんです。辛い時期もたくさんありましたが、全部が次への糧になりました。
最初の発表会を2015年に開かれています。
大澤先生:
はい。スタジオを始めたのが2013年で、その翌年、2014年に一度だけスタジオパフォーマンスを行いました。
お母さんたちにも声をかけて、スタジオでみんなに参加してもらったんです。
見に来てくださったお母様方もとても喜んでくださって、踊っている子どもたちも、緊張しながらも達成感にあふれた表情をしていました。
やっぱりバレエは舞台でやらなきゃいけないと、その時に思ったんです。
小さい子どもたちが作品の練習をして、衣装を着て舞台に立って踊る。是非そういう経験をさせてあげたいと思ったんです。
それで、ちゃんとした舞台で発表の場を作ろうと決意して、すぐにホールを予約しました。2015年に逗子文化プラザホールで、初めての発表会を開催したんです。まだ生徒も少なく、30人もいなかった頃です。
発表会では、お金の話は保護者から出ませんか?
大澤先生:
保護者さんから高すぎるとかの文句は言ってきませんが、それはどうしたって費用はかかります。でも、かかるのには理由があって、舞台は人・装置・照明を整えるコストがそれなりにかかります。それを理解していただくのと、入会時に過去のプログラムをお渡しし、スタッフや内容を具体的に説明します。どうしてもピアノなどの発表会とは違うので。また、理解が難しいご家庭はその前に辞められていると思います。なので不満を直接言われたことはありません。
また、他の習い事にはないことをやるので、私たちも身を粉にして気持ちを込めて発表会に臨みます。そして、本番で拍手が起きた時の感覚を感じ取っていただくと、次からもっと協力的になってくれますね。
「幕もの」への挑戦
第4回までは逗子文化プラザホールで開かれていた発表会を、第5回目から鎌倉芸術館に移されましたが?
大澤先生:
はい。最初の頃は逗子文化プラザホールで小規模に行っていました。もともと私は、発表会を大きくしていくつもりはなかったんです。
ところが、最初から通っている生徒たちから「幕ものをやりたい」という声が出てきました。
でも私は、幕ものをやると、全員が平等にクラス作品を踊る形ではなくなって、それぞれに役がつくことになり平等じゃなくなることを説明しました。実際、役をもらえる子・もらえない子が出ますし、この役をやりたかったのにできないと感じる子もいます。それでも「やりたい、やりたい」と言う生徒が多く、「バレエ教室を続けていくうえで、幕ものをまったくやらないのもどうなのかしら」と私もそこで考えました。
ゲストでお願いしている男性の先生もバレエ団の方だったので、「幕ものをやった方がいいですよ」と勧めてくれていましたが、正直、私はまったく気が進みませんでした。
だって大変ですし、何より平等じゃなくなる。私はクラスごとに作品をつくっていく形を大切にしていたんです。
というのも、橘バレヱ学校がそうだったんです。
各クラスがそれぞれ阿佐美先生振付のクラス作品を踊っていて、さらにソロ作品、上級生になるとパ・ド・ドゥ作品を踊れました。そして最後に、卒業生だけが幕もの、たとえば『白鳥の湖』第2幕を踊るんです。
幕ものといっても、背景幕をつけてやるだけなのに、それだけで完成されていて感動的で、会全体として子どもたちを綺麗に魅せる阿佐美先生の振付も本当に素晴らしかったし。
だから私は、一般的な個人教室がやる幕ものが、どこかお遊戯会のようになってしまうのが嫌で、幕ものならプロのバレエを観たほうが良いと思っていたんです。
でも最終的に、生徒たちの「やりたい」という気持ちに押されて、「じゃあやってみようか」と決めました。それで第5回の発表会で『ラ・シルフィード』を上演したんです。この作品なら背景幕をつけるだけで十分だと思っていたのですが、いざ準備を進めると、スタッフさんたちから逗子文化プラザホールでは背景幕をつけられないと言われてしまって。照明装置も難しいとのことだったので、最終的に会場を鎌倉芸術館に変更しました。
鎌倉芸術館への移行がもたらした変化
なるほど。それで幕ものをやられてみていかがでしたか?
大澤先生: シルフィードを鎌倉芸術館でやったら、もうもうみんな次もそこじゃないとダメになってきちゃって、箱が大きくなって、みんな盛り上がった感じがあると、やっぱり次に、小規模でできなくなります。みんな期待しちゃって、子どもたちも発表会といったら、これぐらいしっかりしたのがやりたいという声が出ていて、次も、じゃあ眠りをやろうかなって。まあ、いいことしか私の耳に入ってこないから、それが、ここまでしなくてもって思う人は多分辞めてしまっていると思うし。
頭を使って考えるレッスン
大変ですね。
大澤先生: はい、本当に大変です。でも、スタッフさんたちはバレエ団の公演を手がける一流の方々だったので、心強かったです。その方たちに支えてもらいながら、私もたくさん勉強させていただいて、次に「眠れる森の美女」を上演しました。 あれは本当に大変でしたね。本番前なんて、「どうしてこんなに大変なんだろう」と思って、ずっと発表会に出演いただいている男性ゲストの濱田先生(※編注:牧阿佐美バレヱ団ファーストソリストの濱田雄冴先生)に聞いたら、「『眠り』が一番大変なんですよ」と言われました。
小学校1年生の生徒も出演していたので、子どもたちにもかなり厳しくせざるを得ませんでした。列を揃えるにしても、うちには助手の先生がいないので、すべて私一人でまとめるのが本当に大変でした。
でも、私は「小学生でも、頭を使って考えさせればできる」と思っているんです。今のお母さんたちは、つい何でも手を出したがるけれど、それは“育てる”こととは違うと思っています。
葉山で子育てをしながら、ずっと感じてきたのは、子どもは自力でできるように育てることが大事だということ。お母さんが荷物の準備から何から全部手伝ってしまうのは、私はあまり好きではありません。
だから助手がいなくても、小学校2年生、3年生くらいの子たちをまとめながら、「袖に入ったらこの順番で並ぶ」「この音でこの位置に移動する」など、全部自分たちでできるように教えました。もたもたしていたら、もちろん厳しく叱りました。でも、そうやって鍛えるうちに、子どもたちはどんどんしっかりして来るんですね。
だから今では「もっと鍛える方向でいこう」と思っています。実際、子どもたちのほうが大人よりもきちんと覚えています。名前や順番、誰がどこに立つかなど、しっかり把握して動けるようになるんです。
厳しさの中にある信頼
私の聞いた範囲では、どこでも指導が厳しいほうが、親御さんに評判いいんです。あんまりソフトなところより、厳しくしてほしいっていう声が多いと。
大澤先生: いや、そこについては疑っています。「厳しくしてください」って保護者の方は言うわけですけど、でも「どうなのかな、本音は」と。結構私の前ではそう言われますけど。
それは、精神的に変な追い込みをするのではなく、生徒さんが成長するための厳しさを望まれていると思いますよ。
大澤先生: そうですね。一番いいのは、やっぱり子どもたちが厳しい体験を乗り越えて、一瞬はちょっとめげるんだけど、乗り越えた先に達成感があったっていうのを見ると、お母さんたちは喜びますよね。家庭ではできないことですから。
発表会が終わると、子どもの顔つきが変わると聞いています。
大澤先生:
変わりましたね。発表会で辞めていった子たちもいるんですけど、残った子たちは、ますますやる気になってきます。2年生、3年生で厳しくした子たちは特に。上級生たちの感じより今勢いがあります。
ということになると、次の発表会でも幕ものをちゃんとやらないといけなくなるし。(笑)
ゲストの濱田先生はどういう経緯でゲストを依頼されたのですか?
大澤先生: 牧阿佐美バレヱ団だったというところから始まりました。他のバレエ団に詳しかったわけではありませんので。年齢や身長のバランス、私と組む相手としての相性からお願いしました。実際、真面目で塩梅がよく、子どもに無理をさせない判断もしてくださいます。
体験レッスンと地域の変化
体験レッスンは実施されていますか?
大澤先生:
やっています。ホームページから問い合わせをいただいたら、通常クラスに入って一緒に体験してもらいます。保護者の方には見学していただき、プログラムや資料で教室の説明も。幼稚園の年齢なら、見本を見ながら50分の流れを体験します。
ただ、このところは問い合わせが少し減少しています。コロナ期の出生数の影響で、地域の幼稚園も人数が少ないと聞きます。葉山は夏になると海・山のレジャーで動きが止まりがちで、4〜9月は例年問い合わせが少ないですね。
全国的にも少子化で習い事は厳しいという話はあります。チアやダンスに流れる傾向はあるのでしょうか?
大澤先生: それはわかりませんが、でもチアは気軽さの印象で選ばれることもあるようです。うちは無理に増やすより、今いる生徒をレベルアップさせることに集中しています。
個人教室の現実と課題
現在はかなりの人数が在籍されています。この先もお一人でやられて行かれる予定ですか?
大澤先生:
これ以上生徒を増やすともう一人講師を入れたり事務体制の見直しや、法人化まで考えないといけません。候補の先生を探した時期もありましたが、結局自分で教えた方が早いと判断することが多くて。今は自前で助手を育てる方向を考えています。ただ、人を雇うと指導のズレや対応の責任が増えます。近隣対応・安全管理・保護者連絡など、最終的に私がいないと回らない場面が多い。
なので無理に大きくせず、自分の年齢に合わせた規模で丁寧に続ける考えです。
教室を開いてみて、想像以上に大変だったことは?
大澤先生: 個人教室ならではの運営ですね。発表会一つ取っても、保護者会の組成・役割分担・連絡網づくり、楽屋運営、受付、衣装管理など、舞台以外の仕事がたくさんあります。でも、お母さんたちはみんな仕事をしていて忙しいので、お金で解決できちゃった方がいいっていうお母さんたちもいるので、今後は外注の選択も考えています。たとえば鎌倉芸術館の運営スタッフや派遣会社に一部を委託し、参加費に反映させる設計も現実的だと思います。先生方はみんな本番前に消耗してしまうことが多いので、人の仕組みで無理を減らすのは今後の課題ですね。
これから教室を開く人へのアドバイスはありますか?
大澤先生: バレエや踊ることが好きでも、好きなこと以外の仕事がたくさんあるということです。また、コロナ以降で教育観や学校の運用も変わりました。今の保育園や学校で何が求められているかを把握しないと、教室運営は成り立たないですね。
最後の質問です。長くバレエと関わってこられて、いま改めて感じる“バレエの魅力”とは何でしょうか?
大澤先生:
4歳で橘バレヱ学校に出会えたことは本当に幸運でした。私自身はプロの経歴はありませんし、苦労や嫌なことも山ほどありましたけど、だからこそ、今の私があり、教室がある。良かったのだと思えます。今の生徒たちには、何事も諦めてはいけないと伝えたいです。
また、生徒には、幼稚園で好きになったバレエの「好き」の意味を考えてほしいと思います。「好き」にはいろいろな種類があります。温かく心が動く「好き」。「バレエが好き」「先生が好き」というような素直な「好き」。でも、その「好き」の本当の意味を、時間をかけて考えてほしいと思います。そして、そのことを私に教えてくれたのがバレエでした。
わかりました。本日は長い時間、ありがとうございました。
大澤先生: こちらこそ、ありがとうございました。
Photo:鈴木 隆久(ふじスタジオ)
※本記事は2025年10月のインタビューをもとにして作成されています。
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